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東京高等裁判所 昭和60年(ネ)607号 判決

控訴人

朝倉雅近

右訴訟代理人弁護士

常木茂

被控訴人

高木安正

右訴訟代理人弁護士

渡辺正雄

永盛敦郎

主文

原判決を取り消す。

控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は控訴人に対し別紙物件目録記載の建物の明渡しをせよ。

3  仮執行の宣言

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)は亡朝倉時一郎(以下「亡時一郎」という。)の所有であつた。

2(一)  亡時一郎は、被控訴人に対し、昭和四六年六月一日、本件建物を、賃料一か月三万九〇〇〇円、期間三年、賃料は毎月末日に翌月分を支払うとの約のもとに賃貸し、引き渡した。

(二)  本件賃貸借契約は、昭和四九年六月一四日、合意により更新され、賃料一か月四万二〇〇〇円(そのうち二〇〇〇円は電話使用料との名目で)、期間は昭和五二年五月三一日までの三年間となつた。

(三)  被控訴人と亡時一郎は、昭和五一年八月頃、迷惑料との名義で本件建物の賃料を一か月一万円増額することを合意した。

3  亡時一郎は、昭和五二年二月七日死亡した。

同人の相続人は、妻である秀子、子である花岡恵美子、朝倉富士子及び控訴人であるが、相続人間の協議で控訴人が本件建物所有権を相続することとなり、昭和五六年八月五日、相続を原因とする控訴人への所有権移転登記を経由した。

4(一)  亡時一郎は、昭和五一年七月、被控訴人に対し、賃料を一か月一〇万二〇〇〇円に増額する旨の意思表示をしていたが、控訴人は、昭和五七年一月一八日被控訴人に送達された本件訴状で、被控訴人に対し、控訴人が本件建物の所有者となつたことを通知するとともに、昭和五二年六月分ないし同五七年一月分の賃料を一か月一〇万二〇〇〇円の割合で支払うよう催告し、あわせて右訴状における賃料増額の意思表示により昭和五七年二月分以降の賃料が一か月一五万円であることの確認を求め、かつ、被控訴人が昭和五七年二月分以降の賃料を一か月一五万円に増額することを不相当と考えるときは、被控訴人が相当と認める賃料を支払うべきであり、その履行を求める旨催告した。

(二)  控訴人は、被控訴人に対し、昭和五七年二月二八日到達の書面で、昭和五二年六月分ないし同五七年二月分の賃料を被控訴人が相当と認める額で支払うよう、昭和五七年一月分及び二月分の賃料は供託せずに控訴人方に持参して支払うよう催告した。

(三)  右(一)、(二)の催告から相当期間が経過した。

5  控訴人は、被控訴人に対し、昭和五七年三月一五日到達の書面で、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

よつて、控訴人は、被控訴人に対し、賃貸借契約の終了に基づき、本件建物の明渡しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の(一)のうち、賃料は三万七〇〇〇円であつて、二〇〇〇円は電話使用料であつた。その余の事実は認める。

同2の(二)につき、賃料は四万円で、二〇〇〇円は電話使用料であつた。その余の事実は認める。

同2の(三)の合意をしたことは認めるが、真実迷惑料であつて、賃料ではない。

3  同3の事実のうち、何びとが相続人であるかは知らないが、その余の事実は認める。

4  同4の(一)の事実のうち、亡時一郎が昭和五一年七月賃料増額の意思表示をしたことは否認するが、その余の事実は認める。

同4の(二)、(三)の事実は認める。

5  同5の事実は認める。

三  抗弁

1(一)  被控訴人は、控訴人に対し、昭和五二年五月三一日、同年六月分の賃料四万円、電話使用料二〇〇〇円、迷惑料一万円の合計五万二〇〇〇円を支払つた。

(二)  被控訴人は、亡時一郎の死後、その子である控訴人に賃料等を支払つてきたところ、控訴人は、昭和五二年六月三〇日、被控訴人に対し、「契約書をみたら、昭和五二年五月三一日で期限が切れていることが判つた。父の死後、他に相続人がおり、亡時一郎の遺産分割手続が完了するまで自分が家賃を受けとるわけにはいかない。今後の家賃の支払は相続手続完了まで待つてほしい。」と述べて、あらかじめ賃料の受領を拒絶し、被控訴人には亡時一郎の相続人を確知できない状態が発生した。

(三)  被控訴人は、昭和五二年七月二〇日、亡時一郎の最後の住所地を管轄する浦和地方法務局に対し、被供託者を亡時一郎の相続人らとして、同年七月分の賃料、電話使用料及び迷惑料の合計五万二〇〇〇円を弁済供託した。

(四)  被控訴人は、その後も、昭和五六年一二月分まで、亡時一郎の相続人らに対し、毎月又は数か月分を一括して毎月の賃料、電話使用料及び迷惑料を浦和地方法務局に供託してきた。なお、迷惑料の供託は昭和五二年七月のしばらく後までで、その後は直接控訴人に対して毎月一万円の割合で支払い、その後、控訴人から「もう迷惑料はいらないから静かにしてくれ。」と申し入れがあつたため、支払をやめた。

(五)  昭和五七年一月一八日、本件訴状が被控訴人に送達されたので、被控訴人は、同年二月八日、被供託者を控訴人として、昭和五七年一月分及び二月分につき相当賃料額五万円と電話使用料二〇〇〇円の合計五万二〇〇〇円ずつを浦和地方法務局に供託した。

2  仮に、被控訴人のした供託が原因を欠くとしても、賃料不払が控訴人と被控訴人との間の信頼関係を破壊しない次のような事情がある。

(一) 控訴人主張の昭和五一年七月の賃料増額の意思表示はなく、本件訴状による昭和五七年二月分以降の賃料を一か月一五万円とする増額の意思表示は従前賃料を一挙に三倍に増額することを求めるものであつた。

(二) 被控訴人は、昭和五七年一月一八日、本件訴状の送達を受け、前記のとおり、同年二月八日、同年一月分及び二月分の相当賃料額として各五万円(従前より一万円増額したもの)及び電話使用料各二〇〇〇円を供託した。

(三) 原審の第一回口頭弁論期日は昭和五七年二月二六日午前一〇時と指定されていた。被告(被控訴人)訴訟代理人は、当日差支えで出頭できないため、口頭弁論期日変更申請をするとともに、答弁書を提出して、被告(被控訴人)が賃料等を供託していること及びその詳細は追つて陳述することを明らかにした。その結果、第二回口頭弁論期日は同年四月九日午前一〇時と指定された。

(四) 同年二月二八日、請求原因4(二)の催告において、「供託しては困る」との表明があつたので、被控訴人は、同年三月二日、控訴人方に昭和五七年三月分の相当賃料五万円及び電話使用料二〇〇〇円を持参し、提供したところ、控訴人はこれを同年三月分の家賃等として異議なく領収した。請求原因5の解除の意思表示はその後になされたものである。

(五) 右のように、被控訴人は、本件訴状送達後は、相当と考える賃料額一か月五万円を支払つており、更に、本件訴訟の審理で従来の賃料支払の実態、増額要求の根拠等が明らかにされようとしている段階で、控訴人がそれを待たずに解除の意思表示をしたことは、その真意が、賃料増額や増額賃料の支払を求めることよりも本件賃貸借契約を解除することにあることを示している。

(六) のみならず、控訴人は、本件訴訟係属後も、「家賃として」との但し書のある領収書を発行して被控訴人から賃料を受領しており、また、現在は、銀行振込の方法で平穏に賃料を受領している。この事実によれば、控訴人は契約解除の意思表示を徹回したものとみるべきであり、そうでなくても、少なくとも、右は当事者間の信頼関係が破壊されていないことの証左ともいうべきである。

四  抗弁に対する認否

1(一)  抗弁1(一)の事実は否認する。

(二)  同(二)の事実は否認する。

(三)  同(三)の事実は認める。

(四)  同(四)の事実中、昭和五三年六月分と七月分については否認し、その余は認める。供託額は昭和五三年五月分までは一か月五万二〇〇〇円であつたが、同年八月分からは一か月四万二〇〇〇円となつている。

(五)  同(五)の事実は認める。

2(一)  抗弁2(一)、(五)は争う。

(二)  同(二)、(四)の事実は認める。

(三)  同(六)は争う。

控訴人は、被控訴人に対し昭和五七年三月一五日到達の書面をもつて契約解除の意思表示をするとともに、じ後は賃料の提供を受けても賃料相当の損害金として受領するものであること、及び、仮に賃料として受領する旨の領収証を作成する場合があつても、契約解除の意思表示を撤回するものではないことを告げてある。そして、そのころからは、原則として賃料としての領収証は作成していない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一職権をもつて調査するに、記録によると、原審においては、第二一回口頭弁論期日において弁論を終結し、判決言渡期日を昭和六〇年一月二五日午後一時と指定したが、同期日は同年二月二二日午後一時に延期され、右日時に第二三回口頭弁論(判決言渡)期日が開かれたこと、しかし、同期日の調書中の不動文字による「判決原本に基づいて判決言渡」との事項欄上部の□に裁判所書記官の認印がなく、ほかに同調書上、判決を言い渡した旨の記載が存しないことが認められる。なお、記録に編綴してある判決原本には、裁判所書記官による「昭和六〇年二月二二日判決言渡同日原本領収」との附記及び捺印が存するが、判決言渡期日調書の記載が右のとおりである以上、同期日の調書をもつて判決の言渡しが適法になされたことを証明することができないので、同期日において判決の言渡しはされなかつたものとみざるを得ない。そうすると、原審の判決手続は違法というほかなく、原判決は、民訴法三八七条の規定により取消しを免れない。

ところで、本件については既に十分に審理が尽くされているから、当審において判断するのに熟しているということができ、したがつて、本件を原審に差戻す必要はないものと認められる。そこで、以下控訴人の請求の当否について判断する。

二請求の原因2の事実は、賃料額の点を除き、当事者間に争いがない。

原審における控訴人本人尋問の結果中には、賃料額及び電話使用料、迷惑料の趣旨につき控訴人の主張に符合する部分があるが、右は、〈証拠〉に照らし措信することができず、ほかに右主張事実を認めるに足りる証拠はない。かえつて、〈証拠〉によると、昭和四六年六月一日に締結された本件賃貸借契約においては、賃料を一か月三万七〇〇〇円とし、あわせて、本件建物に敷設された電話加入権の使用料として一か月二〇〇〇円を被控訴人が支払う旨合意したこと、そして、昭和四九年六月一四日更新された同契約においては、賃料を一か月四万円として右同額の電話使用料支払の合意がされたこと、また、昭和五一年八月ごろ、被控訴人は、亡時一郎との間で、本件建物において深夜スナックを営業することによつて発する騒音の迷惑料として、じ後一か月一万円の金員を支払うことを約束したことが認められ、右事実によれば、右電話使用料は、本件建物とともに一括して賃貸借の目的となつた電話加入権の使用の対価であつて、賃料に準ずべきものということができるが、右騒音迷惑料は本件建物の使用の対価の性質を有しないものというべきである。

三請求原因1及び3の事実は、相続人の氏名を除き、当事者間に争いがなく、右事実及び弁論の全趣旨によると、亡時一郎の相続人間に成立した遺産分割協議の結果、被控訴人は、相続により、本件賃貸借契約上の貸主の地位を亡時一郎から承継したものと認めることができる。

四控訴人が被控訴人に対し、(一)

昭和五七年一月一八日送達の本件訴状をもつて、請求原因4(一)記載のような通知、催告及び賃料増額の意思表示(亡時一郎による賃料増額の意思表示を除く。)をし、(二) 同年二月二八日到達の書面をもつて、同(二)記載のような催告をしたうえ、(三) 同年三月一五日到達の書面をもつて、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。

五そこで、右契約解除の成否について判断する。

1  控訴人は、亡時一郎が昭和五一年七月賃料を一か月一〇万二〇〇〇円に増額する旨の意思表示をした旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。

2  〈証拠〉によると、被控訴人は亡時一郎の死後は、その子である控訴人に前記賃料を支払つていたものであり、昭和五二年五月三一日には、同年六月分の賃料四万円、電話使用料二〇〇〇円、迷惑料一万円の合計五万二〇〇〇円を支払つたが、控訴人は、同年六月三〇日付の手紙で、被控訴人に対し、契約書を見たところ五月末日をもつて契約期限が切れており、五月三一日に家賃を受領したのは錯誤によるものであるから、これを返却する旨、及び六月以降に関しては、父の死後相続手続が完了しておらず、父の名義で契約等をすることはできないので、相続手続が完了するまで待つてほしい旨を伝えて、一たん受領した右六月分の賃料等を返戻したこと、これに対し、被控訴人は、同年七月一一日付の手紙で、控訴人に対し、右六月分の家賃等五万二〇〇〇円は返却されたので一応預りの方法で保管する旨、及び七月分からの家賃は、支払わないわけにはいかないので、時期が来るまで供託する旨を伝えたことが認められる。そして、被控訴人が同年七月二〇日、亡時一郎の最後の住所地を管轄する浦和地方法務局に、被供託者を亡時一郎の相続人らとして、同年七月分の賃料、電話使用料及び迷惑料の合計五万二〇〇〇円を弁済供託したことは、当事者間に争いがない。

また、被控訴人が、昭和五二年八月分から昭和五三年五月分までは電話使用料及び迷惑料を含めた一か月五万二〇〇〇円の割合による金員を、昭和五三年八月分から昭和五六年一二月分までは迷惑料を除いた一か月四万二〇〇〇円の割合による金員を、それぞれ亡時一郎の相続人を被供託者として、昭和五二年八月三〇日から昭和五七年一月二九日までの間に浦和地方法務局に弁済供託したことは、当事者間に争いがない。

前認定の事実によれば、控訴人は、前記昭和五二年六月三〇日付の手紙により、被控訴人に対し、亡時一郎の相続人のうち賃貸人の地位を承継する者が決つていないことを理由に、同年六月分の賃料等の受領を拒絶するとともに、じ後の賃料等についても右承継する者が決まるまでは受領する意思がないことを明らかにしたものというべきであり、しかも、いつたん受領した賃料等を返戻するまでの措置をとつていることからすると、将来における賃料等の受領拒絶の意思は強固であつたということができる。すなわち、被控訴人は、過失なくして債権者を確知することができなくなつたものであるとともに、将来にわたつて賃料等の受領をあらかじめ拒絶され、しかも受領拒絶の意思が強固で翻意を期待できない状態に置かれたものというべきである。そうすると、被控訴人は、昭和五二年六月以降の賃料等につき弁済供託の要件を備えたものということができ、前記昭和五二年七月分から昭和五三年五月分まで及び同年八月分から昭和五六年一二月分までの弁済供託は、いずれも有効なものというべきである。

3  昭和五三年六月分及び七月分の賃料及び電話使用料については、前記契約解除の意思表示がされた昭和五七年三月一五日までに弁済又は供託された事実を認めるべき証拠がなく、かえつて、成立に争いのない乙第一三号証によれば、右二か月分の賃料及び電話使用料として合計一〇万四〇〇〇円が昭和五八年一一月四日に供託されたことが認められる。

4  前記四の(一)の事実によると、控訴人は、本件訴状の送達により、亡時一郎の有した賃貸人の地位を控訴人が承継したことを被控訴人に通知したものということができる。そして、右(一)の事実及び同(二)の事実によると、控訴人は、本件訴状及び同(二)記載の書面により、被控訴人に対し昭和五二年六月分以降の賃料を支払うべき旨を催告したことが明らかである。そうすると、被控訴人は、じ後は、債権者を確知することができないとの理由又は債権者が受領を拒絶しているとの理由で賃料を供託することは許されなくなり、少なくとも弁済の提供をすることが必要となつたものというべきである。

被控訴人が同年二月八日、被供託者を控訴人として、昭和五七年一月分及び二月分の賃料として相当と認める額及び電話料の合計五万二〇〇〇円を供託したことは、当事者間に争いがないが、右供託は供託原因を欠き無効であるといわなければならない。

5  以上の事実によると、被控訴人は、控訴人から支払の催告を受けた賃料のうち、昭和五二年六月分、昭和五三年六月分、七月分、昭和五七年一月分、二月分を、前記契約解除時までに支払わなかつたことが明らかである(なお、昭和五七年三月分については、同年三月二日被控訴人が賃料として五万円、電話使用料として二〇〇〇円を支払い、控訴人がこれを異議なく受領したことは、当事者間に争いがない。)。

6  そこで、被控訴人の右債務不履行につき、信頼関係を破壊すると認めるに足らない特段の事情があるかどうかについて判断する。

まず、昭和五二年六月分については、控訴人がいつたん受領した後前示のような理由を告げて返戻したものであるところ、その後被控訴人において受領拒絶を理由として供託をした事実を認めるに足りる証拠はないから、本件訴状の送達により控訴人が賃貸人の地位を承継したことを了知した以上、被控訴人は、催告にかかる同月分の賃料等を支払わなければ、債務不履行の責を負うべきものであつた。しかし、前認定のように、被控訴人は、同月分の賃料等を契約上の履行期である前月末日(昭和五二年五月三一日)に支払つて債務の本旨に従つた履行をしたものであり(前掲乙第一号証によれば、領収証に控訴人の領収印の押捺を得ている。)、これを返戻された事情が前記のようなものであつて、被控訴人の責に帰すべき事情は何ら存しないこと、当審における被控訴人本人尋問の結果に上記の事実関係を合わせると、被控訴人は、右返戻された賃料等を供託するのを失念したまま現在に至つたものであり、支払うべき賃料等を支払う意思は終始有しており、単に前記のような事情から手元に保管していたにすぎないことが認められること、前記のような催告を受けたにもかかわらずこれを支払わなかつたことについては、既にいつたん債務の本旨に従つた履行をしたにもかかわらず控訴人の側の事情で返戻されたものであり、その時点から催告まで約四年半の年月の経過があり、一方、領収証には控訴人の領収印が押捺されたままであつたことなどからすると、宥恕すべき事情があつたといえることなど、諸般の事情を総合すると、昭和五二年六月分の賃料等の不払については、被控訴人の側には信頼関係に反するような所為はなかつたものというべきである。

次に、昭和五三年六、七月分及び昭和五七年一、二月分についてみると、〈証拠〉を総合すると、控訴人は、昭和五五年一〇月三一日付内容証明郵便をもつて被控訴人に対し、供託の有無を確認するので供託番号を知らせてほしい旨通知し、これに対して被控訴人は、折返し手紙で、相続手続が完了していないとのことなので、債権者を確知することができないという理由で供託しており、通知はされていないと思うが、供託の有無は控訴人の代理人の弁護士が確認しており、もし控訴人が直接確認したいのであれば供託書を控訴人方へ持参するという内容の返事をしたこと、控訴人は、同年一一月一九日差出しの内容証明郵便をもつて被控訴人に対し重ねて供託番号を明示することを求めたため、被控訴人はそのころ控訴人方に赴き、その当時までに供託した賃料の供託番号を全部記載した紙片の写を控訴人の妻に手交したこと、右の経緯において、控訴人から被控訴人に対し供託をやめて直接支払うよう要請した事実はなく、その後も、かかる要請ないし催告がないまま経過し、昭和五七年一月一八日本件訴状が控訴人に送達されたこと、本件訴状には、本件建物が昭和五二年二月七日相続により控訴人の所有となつた旨の記載はあるが、請求の原因としては、専ら、過去に亡時一郎がした賃料増額の意思表示及び右訴状をもつて控訴人がした賃料増額の意思表示にかかる賃料額の確認及びその支払を求める理由が記載されており、なお、右請求額が不相当であると考えるのであれば被控訴人が相当と考える賃料額を支払うべきであるとの趣旨の記載はあるが、さきに昭和五二年六月三〇日付の手紙で被控訴人に伝えた賃料の受領拒絶の意向を改め、じ後は賃料を持参すれば受領するというような趣旨の記載は特段存しないこと、そのため、被控訴人は、今後は賃料を供託することができなくなつたということに思い至らず、昭和五七年二月八日に、相当賃料額として一万円を増額した五万円に電話使用料二〇〇〇円を加えた月額五万二〇〇〇円の割合で昭和五七年一、二月分の賃料を供託したこと、昭和五三年六、七月分の賃料等については、被控訴人の供託手続の疎漏により供託されないまま経過し、昭和五五年に前示のように控訴人から供託番号を明らかにするよう求められた際も、被控訴人はこれに気付かず、また、本件訴状及び昭和五七年二月二八日到達の書面による催告に対しても、既に供託したつもりでいたため何らの措置もとらなかつたこと、そして昭和五八年一一月四日、右二か月分として一〇万四〇〇〇円を控訴人あてに供託したこと、以上の事実が認められ〈る〉。

右認定の事実によると、昭和五三年六、七月分及び昭和五七年一、二月分の賃料等の債務不履行は、被控訴人の不注意によるものというべきところ、賃料の支払は賃貸借契約における最も基本的な債務であるから、その不履行は、単なる不注意によるものであつても、それ自体原則として貸主との間の信頼関係に背くものといわなければならない。

しかし、如上認定の事実によると、本件においては、次のような事実関係を指摘することができる。

すなわち、被控訴人が本件賃料等を供託するようになつたのは、控訴人から、相続関係が確定するまでは賃料を受領することはできないという趣旨の通知がされたからであり、じ後における被控訴人の対応に特段誠意に欠ける点があつたとみられないことからすると、控訴人の側において右のような態度に出ることがなければ、控訴人と被控訴人の間で賃料の不払をめぐつて争いになるような事態が生じることはおそらくなかつたであろうと推測され、したがつて、被控訴人における賃料の不払、供託の疎漏は、結局控訴人の右のような態度に起因しているものとみることができないではない。ところが、控訴人は、このような事態を約四年半の長きにわたつて放置し、しかも、相続関係が確定して賃料を受領することができるようになつたことを被控訴人に通知するなど、右の事態を解消するための明確な措置をあらかじめとることなく、いきなり被控訴人に対し賃料の増額を請求し、賃料額の確認、その支払を求める訴訟を提起した。そして、その訴状の記載によると、従前有効に供託された賃料等をも含め、過去四年半にわたる賃料の全部を一挙に請求するというものであつて、不払賃料の催告という点からすると、その効力はともかくとして、特定性において問題がないとはいえないものがある。また、昭和五七年二月二八日にされた催告についても、同様のことがいえる。このように、前記四か月分の賃料等の債務不履行については、控訴人の側にも、その原因を与え、また手落ちがあつたというべき事実関係が存する。

一方、被控訴人の側についてみると、昭和五七年一、二分月の賃料等については、被控訴人は、催告に応じて、増額した賃料額に電話使用料を加えた金額を契約解除の前に供託し、誠意ある対応を示しており、右供託をしたのは支払の方法を間違えたにすぎないということができる。また、昭和五三年六、七月分の賃料等の不払の点は、被控訴人の怠慢を責められてもやむを得ないものである(昭和五五年に控訴人から供託番号を明らかにすることを求められた際に気が付いて然るべきものであつた)が、なお、悪意によるものと認めるべき事実関係は存しないこと、四年半という長きにわたる期間のうちの二か月分にすぎないことなど、背信性につき消極に解すべき事情を認めることができる。

右にみたところを総合すると、被控訴人の前記債務不履行については、控訴人と被控訴人との間の本件賃貸借契約における信頼関係を破壊するものと認めるに足らない特段の事情があるというべきである。

7  そうすると、控訴人のした本件賃貸借契約解除の意思表示は、その効力を生じないものである。

六以上の次第で、被控訴人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がなく、棄却を免れない。

よつて、原判決を取り消したうえ、控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官舘 忠彦 裁判官新村正人 裁判官赤塚信雄)

物件目録

所  在東京都台東区東上野四丁目一〇三番地

家屋番号 五三番

種  類 居宅(現況店舗兼居宅)

構  造 木造瓦葺二階建

床面積

一階 三三・〇五平方メートル

二階 二四・七九平方メートル

のうち、一階の北側道路より向かつて右側の店舗部分 二一・四八平方メートル(六・五坪)

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